ヨーロッパと日本の写真の違いについて

f:id:ekitai:20150720113114j:plain


写真家、渡部さとるさんのブログでヨーロッパと日本の写真の違いを述べられていた。


ヨーロッパでは個人の感情が表出する写真は好まれない。
理論的な写真こそが写真であると。
だが日本の写真は個人的な感情に寄っているものが多い。
しかし今、写真における理論に行き詰まりを見せるヨーロッパで、異質な日本の写真が好まれつつある。


以上が渡辺さとるさんのブログにおける西洋と日本の写真についての概要。


ここからは私見になる。
問題はそもそもなぜこの写真に対する姿勢の違いが生ずるのかだ。
ここでは人間にとって「価値」というものが如何にして高まるか、という点から考えたい。
あるものの「価値」が高まるには、二つの方法がある。
需要を増やすか、供給を減らすか、である。
経済学の教科書でおなじみ。


まずヨーロッパにおいては不変性を持つ芸術の需要が高い。
その原因は、地中海を囲むように過去から現在まで様々な言語・文化・民族が存在してきたことにある。
異文化間でも共通して受け入れられるのは、個々人の感情ではなく、個々人に共通した不変の原理である。
例えば、宗教画が繁栄したのも、各文化において不変的であるためだ。
そのため、写真においてもどのような文化の個人にも依らない理論的な芸術が極端に価値が高まる。


参考として、俳句がヨーロッパに根付いた点を考慮したい。
俳句は字数の少なさゆえ、ただ事実、起きた現象だけを文章にする。
「乾いた芸術」と言われる所以である。
それに対して、短歌は個人の感情が多分に含まれ、「湿った芸術」として、俳句に比べ普及していない。


ここで多少疑問なのは、ではなぜ今になって日本の感情豊かな写真が好まれつつあるのか。
それはヨーロッパから見れば日本文化は共通してオリエンタル、つまり異文化だからだ。
日本の芸術性が真に受容され、ヨーロッパ人の血肉の一部になったわけではなく、
ヨーロッパ人の理解の上で、あくまで異質なものとして楽しまれているだけに過ぎぬのではないか。
これはかつて浮世絵を結局、ヨーロッパの理論的な芸術活動の参考にだけにしか、しなかった点からも窺える。
当時、本当に浮世絵の自然主義的精神性を受容したのはガレぐらいではなかろうか。


次に、日本においては、感情表現そのものの供給が少ないという点に注目したい。
日本の写真は個人の感情に依っていると上述したばかりではないかと思うかもしれない。
しかしそれこそが、日本社会に感情表現が希薄である証拠である。
日本は大陸から見れば小さい島国であり、また村社会でもあった。
そこでは集団を構成する人員の変化は少なく、以心伝心や空気といったものによって情報伝達は行われる。
ここにおいて、個人間の不変性といったものは当たり前のものになる。
目に見えない共通した理解によって、ものごとが決まっていく。
そこでは個人の感情ではなく、ルールに従って行動しなければならない。
これは和辻哲郎も風土で述べていたように、東アジアの自然災害の多さも、
個人の感情より集団での協調性を優先する価値観として関係しているかもしれない。
いずれにしろ、現実社会において感情表現が乏しいため、芸術においてはことさら、個人の個性が重要視される。


このような地理的な文化環境の違いによって、ヨーロッパと日本において、価値の高い芸術が異なり、写真の好まれる傾向も変わってくる。
と、そういう理解を私はしている。